推理一覧

バッカスメンバーの普段の生活を材料にしたフィクションです。
• 登場人物がバッカスメンバーであるとは、必ずしも明確には述べていないつもりです。

 ８　深夜の地下鉄のトイレ （教訓編）

サッカー選手は、試合中の思いがけない展開に備えるため、普段から恐怖を友にし、落ち着いた対応を心懸けなければならない。そのための教材として。
 

この事件は、地下鉄の深夜のトイレで起きた。

ある日の宴会の帰り、用事があってトイレに入った。
最終目的地までには、迷路のような長い通路を辿らなければならない銀座の地下鉄のトイレ。
トイレでの所用が終わり、私は出口に向かってこの長い通路を歩いていた。
このときの気分は、誰もマークがつけないほどのスピードでサイドバックが駆け上がったときに爽快さだ。右からのアーリークロスをイメージしながら、この長い通路を歩いていた。
出口まで７，８メートルの距離で、トイレに走り込んでこようとする男に気付いた。この長い通路には、２人しかいなかった。
男は、肩を落とし前屈みで小走りだった。
しかも、少し腰を引いていたことが気になった。私は警戒の姿勢を崩さず、その男の挙動に集中しながら、すれ違いの一瞬のチャージにも備え、その男の脇を通り抜けようとした。
その瞬間、私はその男を見てしまった。トイレの入り口で、チャックを解放し、人生のすべてを開放していたその男を見てしまった。
 
 地下鉄に乗った後で、この時の教訓を振り返る余裕が少し生まれた。

我々は、深夜の地下鉄のトイレでは、相手の挙動を細かく観察するというサッカー選手の習性は捨てなければならない。
 

そして、自宅に帰り、さらにこの教訓はバージョンアップした。
この全てをさらけ出した男と、長い通路の中でなぜ自分は出会ったのか。

その恐怖の瞬間はちょうど５分前の自分の姿でもあったことに気づかせるため、運命は同じ姿勢をした男を深夜のトイレで擦れ違わせたのである。