1 バッカスの始まり
1997年1月の太尾学童保育クラブの新年会は盛況に終わった。
そして、その日大川・飯島・レイモンド・赤羽は、家事に疲れた体を休めながら深酒となり、夢のようなサッカークラブの創立を語り合った。
勿論見るサッカーではなく、ボールを蹴って走る方のサッカーである。日頃閨房に棲む閑古鳥を溺愛する我々であったが、この時我を忘れ夢を語り合い、この話は瞬く間に大久保・武田らの耳にするところとなり、すぐに人集めが始まった。
まず、経験者であった石原に指導をお願いすることからクラブ発足が始まった。
さらに、大政・柳(高校生)らに声がかけられた。
大倉山は、法曹関係者が多く、まず最初に会員規約が決まり、学童において何度と無く会議が開かれた。
1997年3月のある土曜日、学童に集まったメンバーは、重要な会議を持った。
倶楽部発足に伴う背番号の決定は、学童の1部屋で密かに行われた。
• 1番:菊地(誰も異論はなかった。GKを希望する本人の意向は直ぐに承認された。なぜなら他にGKを希望する者はいなかったからではなく、年齢がトップだからだった)
• 2番:赤羽(本人は、ナンバーツーという言葉に憧れていた)
• 3番:大川(DF希望のこの経験者は、背番号とポジションを一致させようとしただけだったが、他の者は長島ファンと錯覚していた)
• 4番:大政(高校生ではあったが、必須のメンバーであった)
• 5番:武田(まだ背番号の意味を知らない彼は、早い者勝ちと考えていた)
• 6番:別府(学童の指導員として、参加を無理強いされた)
• 7番:藤田(学童会長経験者として就任を要請された)
• 8番:手島(バッカスの命名者として、自由に背番号を選ぶ特権が与えられた)
• 9番:飯島(ウイング希望の彼としては、この番号をもらうのが倶楽部参加の目的でもあった)
• 10番:四元(当初石原が付けるものと思われ多くの会員がこの番号を選ぶことを敬遠していた。遅れてこの会合に参加した彼は、残っていたのでこの番号を選んだ。スクラムハーフ程度の知識はあったかも知れない。)
• 11番:大久保(飯島と並んでバッカスの期待の星は、飯島と並んで番号の意味を知っていた)
• 12番:柳(高校生は、少し控え目に補欠番号を選んだが、エース番号でもあった)
• 13番:小政(中学生の彼は、か細い体躯ではあったが、サッカー倶楽部に所属し、中年のマスコットでもあった)
• 14番:石原(どうして監督がこんな補欠番を選んだのか、何人かは疑問を持ち続けた。)
• 15番:レイ(控えめに最後に番号を選んだのは代表幹事だった)-
次に役員はジャンケンで決められ、そしてユニフォームが決まり、背番号15番までは埋め尽くされた。
このような会議は何度も開かれ、「とりあえずメンバー補強」を繰り返した。
飯島から宮崎に対し、学童で飲み会があるので来てみたら、という誘いがなされた。何も知らない宮崎が学童を訪れると、歓声に包まれながら背番号17番のユニフォームが渡された。そして誰かが言った。「神棚に飾っておくだけでもいいから」(彼はその後長く神棚にこのユニフォームを飾っていたらしい。26番のユニフォームを紛失した石川が、その後この番号に変更できたのは、神棚に無事保存されていたからだ。)。この頃は、練習よりも人集めだった。
ところが、いつのまにか会員も増え、そして無謀にも公式戦を言い出すものまで出始めた。まだ5分間の体力しかない者も多かった頃である。
練習場は、大綱小学校で、ヒーローは大久保と飯島であった。後で「古代大綱」と称されるこの頃は、二人の神業的なボール裁きと体力にみんなが感嘆していた。
そして、このように練習場すら定まらない97年4月に公式戦が開催されたのである。
- O60
- 13塩見
- 10 四元
- 61倉田
- 14石原
- 09飯島
- 17石川
- 02赤羽
- 15レイ
- 07山口
- 18小野
- 21泉谷
- 08水木
- 55太田
- 11大久保
- 22本多
- 20庭野
-
- O50
- 24西脇
- 49仁科
- 28小田切
- 30田口
- 39青木
- 42千葉
- 06大弓
- 36中田
- 32松田
- 26宮前
- 51浅川
- 33市川
- 29堀田
- 44友利
- 38ミキ
- 45鈴木
- 25森田
-
- 040
- 50遠藤
- 48後藤
- 31栗子
- 34森
- 16三上
- 37苅谷
- 40桝井
- 23若井田
- 35自然
-
- U40
- 19駿介
- 69山階
-
- レジェンド
- 総監督
- 大川
- TD
- 武田
- 大木
- 手島
- 藤田
- 古村